「学校を変えれば、社会が変わる」【4/5】

〜 なぜ今、管理教育から主体性を育てる教育へ転換しなければならないのか 〜
工藤勇一 2026.07.22
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Vol.1 民主主義は進化する 
Vol.2 学校が政治に無関心な国民をつくっている
Vol.3 封建社会の学校から、民主主義の学校へ
Vol.4 自主性を求める教育と、主体性を育てる教育はどう違うのか ◀ 本号
Vol.5 対話の文化を、教室から社会へ

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Vol.4自主性を求める教育と、主体性を育てる教育はどう違うのか

〜 学校は「主体性」を育てると言いながら、「自主性」を求めてきた 〜

「先生に言われなくても、自分からちゃんとやれるね。◯◯さんは自主性がある。」
教室で、今でもよく聞かれるほめ言葉です。
指示を待たずに動く。決められたことを、進んで、きちんとやり遂げる。そんな子どもを、私たちは長い間「よい子」として評価してきました。

「主体性を育てることこそが大切だ。」
教育の世界では、今や当たり前のように語られる言葉です。
学習指導要領にも主体性という言葉が並び、多くの学校が「主体的な学び」を目指しています。
ところが私は、この「主体性」という言葉が、いつの間にか「自ら進んで動くこと」を意味する「自主性」と同じような意味で使われるようになってしまったことに、大きな違和感を覚えるようになりました。
誤解しないでほしいのですが、私は子どもが自ら動くことを否定したいのではありません。自ら進んで行動することは、大切な力です。
問題なのは、「自主性」を「主体性」と勘違いしてきたことです。教師が決めた目標を理解し、指示される前に、期待どおりに動く。そういう子どもを、私たちは「自主性がある」と評価してきました。
かく言う私自身も、一教師として、「言われなくてもできる子」をほめ続けてきたことを自覚しています。
しかし、数え切れないほどの子どもたちとの出会いを通して、それは「主体性」とは本質的にまったく異なるものだと気づくようになりました。

教師や先輩の期待を読み取り、先回りして動く。上の者たちが決めた枠の中で、忠実に役割を果たす。それは、封建社会が理想とした「よくできた家臣」の姿と、どこが違うのでしょうか。
学校は「主体性を育てる」と言います。しかし、実際に子どもへ求めているのは、「自主性」なのではないでしょうか。
この二つは、似ているようで全く違います。そして、この取り違えが、日本の学校教育を長く硬直化させてきたのだと思うのです。

「どうやるか」と「何のため」

自主性と主体性の違いは、次のように整理できます。

自主性は、「どうやるか」を考える力です。
主体性は、「何のためか」を問い続ける力です。

私は長い間、「主体性とは、自分で考え、判断し、行動する力」だと説明してきました。
しかし最近は、もっと本質を突く言い方が見つかった気がしています。

主体性とは、
「何のため」と問い続ける力である。

そう言い切ると、自主性との距離が、はっきり見えてきます。

学校改革とは、制度改革ではない

前回までの記事で、私は麹町中学校で行ったいくつかの改革を紹介してきました。
給食当番をボランティア制にしたこと。
体育祭や合唱コンクールの在り方を見直したこと。
生徒会活動を変えたこと。
そう聞くと、「工藤は学校の制度を変えた人だ」と思われるかもしれません。でも、私は制度を変えたかったのではありません。
一人ひとりに、「何のため」という問いを持ってほしかったのです。

たとえば、給食当番。
「給食当番は、何のためにあるでしょうか?」
ある日、校長室で、一人の生徒が私にこう問いかけました。
たどり着いた答えは、「みんなが気持ちよく給食を食べ、昼休みを楽しむため」。
それがわかると、さらに次の問いが生まれます。
「それなら、当番制じゃなくてもいいんじゃないですか。」
こうして生まれたのが、ボランティア制でした。

制度を変えたかったのではありません。
目的を問い直した結果として、制度が変わったのです。
体育祭も、合唱コンクールも、生徒会も、同じでした。
改革とは、ルールを変えることではありません。
問いを取り戻すことです。

「脱!手段の目的化」

私は講演で、よく「脱!手段の目的化」という話をします。
宿題も、テストも、校則も、行事も、本来は目的を実現するための手段です。
ところが、「何のため」という問いを失った瞬間、手段それ自体がいつのまにか目的に変わります。

宿題を出すことが、目的になる。
勉強時間を増やすことが目的になる。
テストで点を取ることが、目的になる。
校則を守ることが、目的になる。
行事を成功させることが、目的になる。

そうなると、子どもは「何のために学ぶのか」を考えなくなります。
教師も、「何のためにその指導をするのか」を問わなくなります。
だから私は、学校改革とは制度改革ではないと考えています。
学校改革とは、人々が失ってしまった「問い」を取り戻すことです。
学校とは、本来「答え」を教える場所ではありません。「何のため」という問いを失わない子どもを育てる場所であるべきなのです。

主体性を評価しようとして、主体性を失わせてしまった

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