「変えちゃダメ」の根拠にされてきた「不易流行」その勘違いが教育を変えにくくしてきた

芭蕉の言葉をたどったら、行き着いたのは1996年のある文書だった。
工藤勇一 2026.08.17
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「教育には、不易と流行がある」

教育に携わっている方なら、一度は聞いたことのある言葉ではないでしょうか。
私自身、これまで何度この言葉を聞いてきたかわかりません。
特に、学校教育を変えようという話をするときによく登場します。

「時代が変わったからといって、何でも変えればいいわけではない」
「教育には、昔から大切にしてきた、変えてはいけないものがある」
「子どもたちには、きちんと規律を教え、躾をしていくことも必要だ」

そんな話とともに、「不易流行」という言葉が使われます。
もちろん、教育には時代が変わっても大切にしなければならないものがあります。私もそのことに異論はありません。

でも、以前からどうも引っかかっていました。
「不易流行」って、本当にそういう意味なのだろうか。
そこで、改めて調べてみることにしました。

そもそも「不易流行」って、本当はどういう意味?

「不易流行」は、松尾芭蕉の俳諧の考え方から生まれた言葉だそうです。
私は俳諧や古典の専門家でも何でもありませんので、芭蕉について偉そうなことを語るつもりはありません。
ただ、調べていくと、私たちが教育界でずっと聞いてきた「不易」と「流行」とは、どうもかなりニュアンスが違うようなのです。
芭蕉の弟子の土芳(どほう)という人がまとめた『三冊子』という書物には、こんな言葉が残されているそうです。

「師の風雅に万代不易あり、一時の変化あり。この二つにきはまり、その本一つなり」

正直に言えば、私はこれを原文のまま読んでも、すぐには意味が分かりません(笑)。
いくつかの解説を読んで、私なりに理解したところでは、

「変わらないもの」と「変わっていくもの」は、別々のものではなく、根っこのところでは一つなのだ

という意味らしいのです。
さらに調べてみると、芭蕉にとっての「流行」は、私たちが普段使う「今年はこれが流行っている」という意味での「流行」とも違うようです。
常に新しさを求め、変化していくこと。
そして、その変化を続けていくこと自体が、変わらない本質につながっていく。
どうも、そんな考え方だったようなのです。

「不易」と「流行」を分けて考えること自体が違っていた

ここで、もう一つ大切なことがあるようです。
「不易流行」という言葉だけを見ると、「不易」と「流行」という二つの言葉を組み合わせたものですから、私も最初は、
「変わらないものが『不易』で、変わっていくものが『流行』ということなんじゃないの?」
と思いました。

実際、その理解自体が間違いというわけではないようです。
ただ、芭蕉は、この二つを「どちらかに分けるもの」として考えていたわけではないらしいのです。
「これは不易だから変えてはいけない」
「これは流行だから時代に合わせて変えていけばいい」
というように、物事を二つに仕分けする考え方ではない。
なぜなら、先ほどの言葉の最後に、

「その本一つなり」

とあるからです。
変わらない本質を求めることと、常に新しいものを求めて変わり続けること。
一見、反対に見えるこの二つは、実は根っこのところでは一つである。
どうやら、そこが「不易流行」という考え方のいちばん肝心なところらしいのです。

そう考えると、「不易流行」は、
「変えるもの」と「変えないもの」を仕分けするための言葉ではない。
むしろ、

「本質を追究するからこそ、変わり続ける」

という一つの考え方を表した言葉なのではないでしょうか。
古典にはまったく疎い私ですが、ここまで調べてみて、ようやく「不易流行」という言葉が少し腑に落ちた気がしました。

本来の「不易流行」は、教育のあるべき姿を表している

そして同時に、私は少し驚いてもいました。
なぜなら、本来の「不易流行」という考え方は、私がこれまで学校教育の中で大切にしてきたことと、本質的に同じことを言っているように思えたからです。

教育について考えるとき、私はいつも「何のため?」という問いを大切にしてきました。
宿題は何のためにあるのか。
定期テストは何のために行うのか。
校則は何のためにあるのか。
担任という仕組みは何のためにあるのか。
そもそも学校は何のためにあるのか。
こうして「何のため」を突き詰めていくと、最後に残るのは、昔から続いてきた学校の仕組みや教育方法ではありません。

子どもがよりよく生きていくために、教育がある。

私は、そこが教育の本質だと思っています。
だからこそ、その目的を実現するための方法は、時代や子どもたちの状況に応じて、何度でも見直していい。
むしろ、見直し続けなければならない。
社会が変わり、子どもたちを取り巻く環境も変わっているのに、教育の方法だけを「昔からやっているから」という理由で変えないのであれば、かえって本来の目的から離れてしまうことさえあります。

ここまで考えてみると、芭蕉のいう
「その本一つなり」
という言葉が、私にも少し分かるような気がしてきました。

本質を大切にすることと、変わり続けることは対立するものではない。

本質を大切にするからこそ、変わり続ける。
少なくとも私には、そういう意味に思えました。
俳諧の世界と教育の世界。
まったく違う世界の話ですが、本質を追究するという意味では、「不易流行」という考え方と、教育のあるべき姿は、実は同じことを指しているのではないでしょうか。

ところが、です。
教育界では、この言葉がむしろ逆の意味で使われることが少なくありません。
「教育には不易がある」
という言葉が、
「昔から大切にしてきた教育を簡単に変えてはいけない」
という意味で使われる。

では、いったいいつから、このような使われ方をするようになったのでしょうか。
気になって調べていくと、一つの大きな転換点と思われる文書に行き着きました。
それが、1996年(平成8年)7月に出された中央教育審議会の第一次答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」です。

1996年、中教審が示した「不易」と「流行」

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続きは、2861文字あります。
  • 中教審の言葉は、学校現場の「当たり前」になっていく
  • 今こそ「不易流行」を、本来の意味で

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