「日本のよさ」は近代の学校がつくったのか
先日、「不易流行」についての記事を書きました。
教育の世界では、「不易」と「流行」という言葉がよく使われます。
「時代が変わっても変えてはいけないもの」と、「時代に合わせて変えていくもの」。
しかし、本来の「不易流行」は、その二つを分けて考えることではありません。
本質を追い求めれば、時代や状況に応じて方法は変わり続ける。
変わり続けるからこそ、本質を守ることができる。
そんなことを書きました。
今回は、「日本のよさ」と言われる日本文化と教育との関係について考えてみたいと思います。
「日本のよさ」と言われれば、いろいろなものを挙げることができます。
自然とともに生きようとする感性、四季や旬を大切にする感覚。
五感を大切にし、自然の恵みをそのまま、最もおいしい状態でいただく和食文化。
侘び・寂びや、間、余白、古びたもの、不完全なものにも美を見いだす美意識。
木組、漆器、刃物など、実用性と美を融合させた職人技。
「もったいない」という言葉に象徴される、ものを生かし、使い切ろうとする文化。
使用した場所はきちんと掃除をして元通りにする。
道具は大切に扱う。
そして、人に迷惑をかけない、誰も見ていなくても自分を律する、人を大切にするといった倫理観や生活文化。
こうして並べてみると、「日本のよさ」と言われれば、かなり幅広いものが思い浮かびます。
ところが、
「日本の学校教育のよさは何ですか」
と聞かれると、私は正直、悩んでしまいます。
先ほど挙げたものの多くは、学校教育とは直接結びつきません。
四季を愛でる感覚も、侘び・寂びも、「もったいない」も、近代の学校が生み出したものではないからです。
ここに、今回、私が考えてみたいことがあります。
もしかすると、私たちは、
「日本社会の中で長く育まれてきたよさ」と、「日本の近代の学校教育のよさ」を、混同しているのではないか。
ということです。
今回の記事では「日本のよさ」全体を扱うのではありません。
その中でも特に、
自らを律すること。
自分の役割を担うこと。
他者に配慮すること。
困ったときに互いに助け合うこと。
公共の場を大切にすること。
こうした、日本社会の中で育まれてきた社会的な行動や倫理観に焦点を当てて考えてみたいと思います。
「日本文化のすばらしさは学校教育のおかげ」なのか
大災害の直後であっても、多くの人が列をつくり、順番を守り、互いに譲り合う。
サッカーのワールドカップでは、日本から訪れたサポーターが試合後にスタンドのゴミを拾う姿が、世界で何度も称賛されてきました。選手たちがロッカールームをきれいにして帰ることも話題になります。
大谷翔平選手がグラウンドのゴミを拾う姿や、周囲への礼儀正しい振る舞いも、たびたび注目されてきました。
こうした姿を見るたびに、よく言われることがあります。
「これこそ日本の学校教育の成果だ」
確かに、日本の学校には特徴的な文化があります。
子どもたちが自分で教室を掃除する。
給食を自分たちで配膳する。
係や当番を担う。
時間を守る。
整列する。
集団で行動する。
先生の話を静かに聞く。
こうした経験を小さい頃から繰り返すことが、日本社会で見られる規律正しさや公共心、他者への配慮につながっている。
そう考えるのは、とても自然なことだと思います。
そして、この考え方はしばしば、
「だから、日本の学校教育を簡単に変えてはいけない」
という主張につながります。
でも、本当にそうなのでしょうか。
『小学校~それは小さな社会~』
こうした日本の学校文化を、とても印象的に描いた映画があります。
山崎エマ監督のドキュメンタリー映画、
『小学校~それは小さな社会~』です。
映画では、日本の公立小学校で、子どもたちが掃除をし、給食を配膳し、係を担い、時間を守り、みんなで行動する姿が丁寧に描かれています。
タイトルにあるように、学校はまさに「小さな社会」です。
子どもたちはそこで、勉強だけを学んでいるわけではありません。
人とどう関わるのか。
自分の役割をどう果たすのか。
集団の中でどう振る舞うのか。
社会で生きていくための振る舞いを、毎日の学校生活の中で身につけていきます。
この映画を見た方の中には、
「なるほど。日本社会で見られる規律正しさや公共心、努力することの大切さは、こうして小学校で育てられているのか」
と感じる人も多かったと聞いています。
しかし、私自身は、この映画を見ながら、ある種、日本の学校教育の怖さのようなものを感じました。
そこで、この映画に見られる日本の学校教育の文化について、二つの視点で整理してみたいと思います。
この映画に見られる価値観や行動様式は、近代の学校の中でどのように定着してきたのか。
また、明治以降の近代学校ができる以前の日本文化とは、どのような関係があったのか。
そして、もう一つ。
この映画のサブタイトル、「〜それは小さな社会〜」についてです。
確かに、学校は小さな社会です。言い換えれば、学校の姿は未来の社会そのものです。
だとすれば、この映画の小学校の姿をもって、未来の社会ということができるのでしょうか。
このことを私たちは、真剣に見つめ直していく必要があります。
近代学校ができる前の社会では、どのように人を育てていたのか
日本の教育の歴史を調べてみると、とても興味深いことが見えてきます。
現在、私たちが「日本のよさ」と考えているものの多くは、明治以降の学校教育より、はるか以前から日本社会に存在していたということです。
江戸時代には、現在のような全国統一の学校制度はありません。
しかし、確かな教育の文化がありました。
家庭があり、地域があり、仕事があり、奉公があり、寺社があり、寺子屋がありました。
つまり、
社会そのものが、人を育てる場だったのです。
例えば、江戸時代の教育に大きな影響を与えた儒学には、「灑掃・応対・進退」という言葉があります。
身の回りを掃除すること。
人ときちんと応対すること。
自分の振る舞いを整えること。
禅にも、掃除や炊事などの日々の仕事そのものを修行と考える「作務」という文化がありました。
掃除や日々の仕事は単なる「雑用」ではなく、暮らしの中で、人としての振る舞いを身につけていくものでもあったのです。
自分がいる場所を、自分の手で整える。
それは、その場所の当事者になることでもありました。
寺子屋も興味深いところです。
読み書きや計算だけではなく、手紙の書き方や商売、地域で暮らすために必要な知識などを学んでいました。
しかも、現在の学校のように、全員が同じ内容を、同じ時間に、同じ速さで学ぶことが基本ではありませんでした。
一人ひとりがそれぞれの課題に取り組み、師匠が必要に応じて教える。
少なくとも、今の一斉授業とはかなり違う学び方でした。
地域の暮らしもそうです。
農作業、水の管理、道の整備、冠婚葬祭など、一人ではできないことを互いに支え合う。
必要な決まりを、自分たちで話し合う。
もちろん、江戸時代の社会を理想化するつもりはありません。
同調圧力も、相互監視もありました。
それでも、
自分たちの暮らしを、自分たちで成り立たせる。
という営みが、日常の中にあったことは確かです。
「思いやりのある人になりましょう」と授業で教えたから助け合ったのではない。
助け合わなければ、暮らしそのものが成り立たなかった。
理念が先ではなく、暮らしが先だったと考えられます。
外国人が見た日本は「子どもの楽園」だった
当時の日本について、来日した外国人がしきりに驚いていたことがあります。
それは、子どもの育てられ方です。
幕末から明治初期に日本を訪れた外国人たちが残した、子どもについての記録によってそれを知ることができます。
当時の日本社会を見た外国人の多くが、
「子どもがとても大切にされている」
ことに驚いています。
学制が始まる以前の1850年代に日本を見たオランダ人のカッテンディーケは、当時の子育てを見て、子どもの自然な成長を尊重するルソーの『エミール』を連想しました。
初代駐日英国公使のオールコックも、日本を「子どもの楽園」と感じるほど、子どもが大切にされていることに注目しています。
1878年に日本を旅したイザベラ・バードは、大人が子どもを脅して言うことを聞かせるような姿がほとんど見られないことに驚きました。
さらに、子どもたちは大人に遊ばせてもらうのではなく、自分たちで遊び、ルールを共有し、問題が起きれば子ども同士で解決していたと観察しています。
後に小泉八雲も、日本では西洋以上に大きな自由が子どもに認められていると書いています。
中でも、1877年に来日したアメリカの動物学者エドワード・モースが残した言葉は印象的です。
モースは、「子どもたちに変わることのない優しさをもって接する」ことを、日本社会の特徴として挙げました。
そして、それを文明の尺度とするなら、日本は欧米をはるかに上回る、とまで評価しています。
こんな一節もあります。
日本の庶民が暮らす路地を歩き、子どもたちを観察したときのことです。
そこから無作為に100人の子どもを選んだとしても、ニューヨークの高級住宅地フィフス・アベニューから100人を選ぶより、礼儀正しく、振る舞いが優雅で、利己的でなく、他人の気持ちをよく考えているだろう。
モースは、そう書いています。
複数の外国人の記録を並べると、「大人が強く統制しない」「子どもが自由に遊ぶ」「子ども同士で問題を処理する」という姿と、「礼儀や他者への配慮」が同時に見えていたことが分かります。
彼らが見た子どもたちは、
大人から大切にされている。
強く統制されていない。
かなり自由に遊んでいる。
子ども同士で物事を決めている。
にもかかわらず、
礼儀があり、他者にも配慮している。
と映っていました。
一言で言えば、大切にされていることと、子どもが落ち着いていることが両立している。
外国人は、そこを不思議に感じていたのです。
これは、当時の欧米の子育てや教育が、厳しい管理を前提としていたからだと考えられます。
時には体罰を振るうことも必要だ、という考え方がベースにありました。
その背景には、「人は生まれながらに罪を背負っており、厳しく躾けなければ正しい人間にはならない」という、厳格なキリスト教的な人間観の影響を指摘する見方もあります。
もちろん、当時の日本の教育を考えるにあたって、外国人の観察だけで江戸時代の子育て全体を断定することはできませんし、地域による違いもあったでしょう。
ただ、少なくとも、
子どもを幼い頃から細かく管理し、規則を守らせたから、日本社会の秩序や公共心が生まれた。
ということではないのです。
近代の学校がまだ始まっていない、あるいは始まったばかりの時期の、日本社会の姿です。
当時の日本の子どもは、大人から厳しく統制されていたのではありませんでした。
むしろ、大切にされ、強く叱責されず、かなり自由に育てられていた。
にもかかわらず、外国人が驚くほど落ち着いていて、他者に配慮し、礼儀正しかった。
これは、私たちが考えがちな順序を、根本から疑わせます。
「子どもを厳しく躾けたから、秩序ある社会になった」
のではなく、
「大切にされ、自分たちで折り合いをつける経験を重ねた子どもが、そういう大人に育っていった」
そんな教育の姿があったと考えられます。
そこへ、近代学校という新しい制度がやってきた
大きな転換点が、明治です。
1872年、明治政府は「学制」を公布し、全国に近代的な学校制度をつくり始めます。
その制度設計では西洋の学校制度が参照され、とりわけ学区制などにはフランスの影響が見られます。
そして、学制の前日に出された太政官布告、いわゆる「被仰出書」には、非常に象徴的な言葉があります。
学問は身を立るの財本とも云ふべき者にして、人たるもの誰か学ばずして可ならんや
学問は、身を立てるための元手である。
さらに、
「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」
とも述べています。
広く人々に学ぶ機会を届けようとした。
これは、それまでの社会から見れば画期的な転換でした。
変わったのは「誰が学校で学ぶのか」だけではありません。
学び方そのものも、大きく変わっていきます。
子どもたちを学級に編成し、共通の教科書を使い、教師が大勢の子どもに同じ内容を一斉に教える。
文部省の『学制百年史』は、この新しい教授法を、
「寺子屋で行なわれていた個人教授の方法を改革する」
実践だったと説明しています。
一人ひとりが、それぞれの課題に取り組む教育から、共通の内容を集団に一斉に教える教育へ。
近代学校は、多くの子どもたちに教育を届けることを可能にしました。
それは間違いなく、大きな前進でした。
しかしその一方で、それまでの学びが持っていた、一人ひとりが自分の課題に向き合うという性格は、次第に薄れていったと思われます。
そして、その後の近代学校には、さらにもう一つの性格が強く入ってきます。
軍隊式の規律です。
1885年、東京師範学校に兵式体操が導入されます。
文部省でこれを推し進め、同年末に初代文部大臣となった森有礼は、教師を育てる師範学校の教育に軍隊式教育を取り入れていきます。
森の上奏文には、その目的がはっきり書かれています。
「厳粛な規律」を励行する。
勇ましく、たくましく、そして従順な人間に育てる。
それによって忠君愛国の精神を養う。
そして、学校に持ち込まれていったのは、こうした姿です。
整列する。
号令で動く。
時間を守る。
集団で同じ行動をする。
ここで「規律」は、また違う意味を帯びます。
自分たちの暮らしを成り立たせるために、自分を律する規律ではなく、
国家や組織が求める行動に、人を揃えていくための規律。
先ほど見たように、当時の日本社会は、子どもをかなり自由に育てる社会でした。
そこへ、子どもを規律によって揃えていく制度が入ってきた。
集団を一斉に動かすための規律が、教員養成を通して制度的に組み込まれていったのです。
私は、ここに大きな転換があったと思います。
ただし、ここで付け加えておきたいことがあります。
私は、この明治以降の教育への転換そのものを、「間違いだった」と否定したいわけではありません。
当時の世界では、欧米列強がアジアやアフリカへ進出し、植民地を広げていました。
日本にとっても、独立を守り、近代国家として生き残ることは切実な課題でした。
国を豊かにし、軍を強くする。
いわゆる富国強兵です。
そのために、多くの人に共通の知識と規律を身につけてもらう。
全国に学校を整備する。
当時の日本が置かれた状況を思えば、そこに切実さがあったことは理解できます。
問題は、当時の選択が正しかったか、間違っていたかではありません。
その時代に必要とされた教育の「形」を、社会が大きく変わった今も、私たちが当たり前のものとして引き継ぎ続けていることです。
時代が変われば、教育の目的も、そのための方法も問い直さなければならない。
私が考えたいのは、まさにそこです。
制度は変わった。でも、日本の文化は続いていた
一方で、制度が変わったからといって、それまでの教育文化が一気に消えたわけではありません。
明治初期の小学校の多くは、寺院や民家を校舎として使っていました。
それまで寺子屋で教えていた師匠が教師となり、寺子がそのまま小学校の生徒になった例もありました。
つまり、制度は変わった。
しかし、人も、場所も、暮らしも続いていた。
ここが、とても重要だと思います。
新しく入ってきた近代学校の仕組みと、それ以前から日本社会にあった生活文化。
その二つが混ざりながら、日本の学校文化がつくられていったのではないでしょうか。
その象徴の一つが、学校掃除かもしれません。
日本では、子どもたちが自分たちで教室や廊下を掃除することが当たり前になっています。
しかし、これは世界の学校に共通する文化ではありません。
では、なぜ日本の学校では子どもが掃除をするようになったのでしょう。
「寺子屋の掃除が、そのまま近代学校に引き継がれた」と断定できるわけではありません。
ただ、前述のように日本社会には近代学校以前から、
身の回りを自分で整える。
日々の仕事を人としての学びと考える。
自分たちが使う場所を、自分たちで維持する。
という文化があったということです。
もともと社会の中にあった生活文化が、近代学校という新しい器の中に入り、やがて「学校教育の文化」になっていった。
そう考えることもできるのではないかと思います。
少なくとも、
「学校で掃除を教えたから、公共の場所を大切にする文化が生まれた」
と単純に考えるのは、歴史の順序が逆なのかもしれません。
「日本のよさ」の中にも、自律と他律が混ざっている
ここまで考えてくると、もう一つ大切なことが見えてきます。
私は、日本の文化を無条件に称賛したいわけではありません。
「日本のよさ」と呼ばれているものの中にも、光と影があります。
例えば、
誰も見ていなくても、自分を律する。
自分が使った場所を、自分で整える。
困っている人がいたら助ける。
自分たちのことを、自分たちで話し合う。
こうしたものは、これからも大切にしたい価値です。
一方で、
人に迷惑をかけてはいけない。
周囲に合わせなければならない。
自分だけ違う行動をしてはいけない。
与えられた役割は黙って果たさなければならない。
こうしたものも、「規律正しさ」という同じ言葉の中に入り込んでいます。
つまり、学校ができる以前の日本社会にあった自己規律そのものにも、
自律につながるものと、他律につながるものの両方があった。
そこへ明治以降、
整列する。
号令に合わせて動く。
決められた時間に全員が揃う。
教師の指示に従う。
という学校の規律が重なりました。
だとすれば、現在の日本の学校の中には、異なる歴史を持つ規律が、複雑に混ざっていると考えた方がよいのかもしれません。
「規律正しい」だけでは、見分けられない
例えば、自分が使った場所を自分で掃除する。
同じ「掃除」という行動でも、
「先生に言われたから掃除する」のと、
「自分たちが使う場所だから、自分たちできれいにしよう」と考えて掃除するのでは、まったく意味が違います。
時間を守ることも、役割を果たすことも、みんなで協力することも同じです。
私は、この違いを、
自分たちの生活を、
自分たちで成り立たせるための規律
と、
集団を同じように動かすための規律
と捉えています。
言い換えれば、
自律するための規律と、従わせるための規律です。
もちろん、江戸時代が自律で、明治時代が他律だった、などという単純な話ではありません。江戸時代の社会にも強い同調圧力や相互監視がありました。
逆に、明治以降の学校のすべてが、人を従わせるための教育だったわけでもありません。
大切なのは、
江戸か明治か。
日本か西洋か。
個人か集団か。
という二者択一ではないと思います。
私が注目したいのは、
自律か、他律か、です。
日本の学校の「特別活動」は、とても面白い
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