「学校を変えれば、社会が変わる」【5/5】
Vol.1 民主主義は進化する
Vol.2 学校が政治に無関心な国民をつくっている
Vol.3 封建社会の学校から、民主主義の学校へ
Vol.4 自主性を求める教育と、主体性を育てる教育はどう違うのか
Vol.5 対話の文化を、教室から社会へ ◀ 本号
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Vol.5 対話の文化を、教室から社会へ
〜 学校の姿を設計することは、未来の社会を設計すること 〜
体育祭と文化祭は、民主主義を学ぶために設計した教育活動
体育祭や文化祭は、多くの学校で毎年当たり前のように行われています。
しかし、私はそれらを単なる学校行事とは考えていません。学校教育は、意図的・計画的に行われる営みです。
「こんな子どもたちに育ってほしい。」
その目的を明確にし、そのためにはどのような経験が必要なのかを考え、一つ一つの教育活動を設計していく。それが教育課程です。
私が麹町中学校で校長を務めていたとき、体育祭や文化祭は、子どもたちが民主主義を学ぶためのものとして設計しました。
教育課程とは、年間行事を並べた予定表ではありません。
校長時代には、学校全体のあらゆる教育活動を、その考え方で見直しました。
生徒たちの主体性や当事者性を育てるという最上位の目的・目標に照らし合わせながら、一つ一つの教育活動の意味を問い直していったのです。役割を終えたと判断した教育活動は見直し、足りないと考えたものについては、新たな教育活動をつくっていきました。
教育課程全体のバランスも大切です。
どんなに素晴らしい教育活動でも、多すぎれば、生徒にとっても教師にとっても大きな負担になります。
時間には限りがあります。教育活動を増やし続ければ、一つ一つを十分に味わい、学びにつなげる時間が失われ、本来育てたい力を育てることが難しくなります。
当然ですが、発達段階や習熟の状況に合わせて、どの時期に行うのか、どのような順番で経験させるのかが非常に重要です。
教育課程とは、個々の教育活動だけではなく、その配列まで含めて設計するものです。
今回は、その中でも体育祭と文化祭という二つの教育活動を通して、私が考えていた教育課程についてお話ししたいと思います。
「全員だよ。誰一人取り残すことなく。」
体育祭の実行委員になった生徒たちに、私は最初にこう伝えました。
「体育祭の一番大切な目標は、生徒全員を楽しませることだよ。
先生たちのことも、見に来る保護者のことも気にしなくていい。
「とにかく、全員だよ。誰一人取り残さないんだよ。」
そう伝えると、生徒たちは少し考え込みます。
おそらく、一人ひとりの生徒の顔を思い浮かべながら、「全員って、どういうことだろう」と考え始めるからです。
運動が好きな人もいれば、嫌いな人もいます。
競争したい人もいれば、競争そのものが苦手な人もいます。
勝負にこだわる人もいれば、勝ち負けにはあまり興味がない人もいます。
みんなで盛り上がることが好きな人もいれば、大勢の前に立つことが苦手な人もいます。
団結することに喜びを感じる人もいれば、「心を一つに」と求められること自体に息苦しさを感じる人もいます。
体に障害があり、参加できる競技が限られている人もいます。
さまざまな事情から、大勢の中に入ることが難しい人もいます。
「全員を楽しませる。」
その一言は、実はとても難しい課題なのです。
しかし、この問いに向き合い始めた瞬間から、生徒たちは人はみんな違うという現実に向き合い始めます。
体育祭を企画するとは、単に競技や出し物を考えることではありません。
一人ひとりの違いを想像しながら、「この人は楽しめるだろうか」と考え続けることなのです。
ここで私は、生徒たちにもう一つ問いを投げかけます。
「優勝を目指す体育祭にしたら、どうなるだろう。」
すると、多くの生徒は、
「みんなで団結する。」
「一生懸命練習する。」
「励まし合う。」
そんな答えを返してくれます。
もちろん、それも一つの姿です。
しかし、その一方で、別のことも起こります。
勝つことが目的になれば、全員の力を結集する必要が生まれます。
すると、協力しない人に腹が立つことがあります。
思うような結果が出ない人を責めたくなることもあります。
「もっと真面目にやれ。」
「なんで一生懸命やらないんだよ。」
そんな言葉が飛び交うこともあるでしょう。
やがて、人間関係がぎくしゃくし、責め合いや分裂が起きることもあります。
運が悪ければ、不登校のきっかけになってしまうことさえあります。
4学級あれば、優勝できるのは1学級だけです。
残り3学級は、優勝の喜びを味わうことはできません。
私は、このような体育祭を否定したいわけではありません。
逆に、競争そのものをなくしてしまえば、スポーツが本来持っている楽しさまで失われてしまうことになります。
以前、「みんなで手をつないでゴールしましょう」という運動会の話を耳にしたことがあります。それでは、勝負を楽しみにしている子どもたちの主体性まで奪ってしまうでしょう。
大切なのは、例えば「勝利を目指す体育祭」と決めた瞬間に、どのような価値観を優先し、どのような人が取り残される可能性があるのかを理解することです。
企画するとは、自分たちの価値観を押し付けることではありません。
さまざまな価値観をもった人たちを想像しながら、一人でも多くの人が参加したくなる体育祭を考え続けることなのです。
私は、生徒たちに何度も伝えました。
「イベントを企画する人は、自分の価値観でストーリーを描いてはいけない。」
それは、民主的な社会をつくるときも全く同じです。
「心を一つに」とは、同じ心になることではない
体育祭の実行委員と話をしていると、必ずと言ってよいほど出てくる言葉があります。
「心を一つにした体育祭にしたいです。」
その言葉を否定することはありませんが、ただ、必ずこう問い返します。
「心を一つにするって、どういうこと?」